神田祭


平成のご造替竣功奉祝      (2001年5月14日) 

5月14日(金)夕 刻  氏子町会神輿御霊入れ神事
5月15日(土)終 日  神幸祭(鳳輦神輿氏子内巡行)

                ◇氏子青年奉仕による「大獅子」巡行
                ◇日本橋より神社まで「付け祭」参加奉仕
                ◇ボーイスカウト・交通少年団・消防少年団等の青少年の参加奉仕
                ◇希望者を募り巫女舞指導(氏子少女の巫女舞奉納)
5月16日(日)終 日  町会神輿宮入り参拝
                ※摂社江戸神社大神輿・摂社水神社大神輿の宮入参拝も行われる
                  予定であります。
                ◇ お神輿広場へ神輿・山車・付け祭が集結 
                ◇ お神輿ウオッチングラリー(御酒所めぐり)
5月18日(火)14時  例大祭式典(神社本庁献幣使参向)  里神楽奉納
5月19日(月)11時  献茶式(表千家家元奉仕)


神田明神の由緒と神田祭の歴史

 
社伝によると、天平2年(730)創建とあり、すでに1270年の歴史を経た、都内で最も古い神社の一つとして知られています。

この地は、江戸城の良(
うしとら)の鬼門に当たる場所で、江戸総鎮守神田大名神に相応ふさわしく幕命により桃山風の荘厳な社殿が築かれました。

 明治を迎えると東京府社に定められ、同七年には明治天皇の御親拝が行われました。関東大震災では社殿他建物がすべて烏有(うゆう)に帰し、昭和9年に神社建築として画期的な、鉄骨鉄筋コンクリート造り総漆朱塗(そううるしぬり)で社殿を再興。また平成7年より11年にかけて「平成のご造替事業」が行われ、美しく甦りました。

 自慢の神輿が次々と神社に繰り出し勇壮な宮入のセイヤ!セイヤ!の掛け声が朝から晩まで続きます。その数、約90基。なかでも、クライマックスは夕刻に宮入する旧神田市場の巨大神輿。

 はじめ神社は皇居のほとり、現在の大手町(武蔵国豊島郡江戸芝崎)にありました。

 やがて、天慶(てんきょう)の乱(939〜40年)に破れた平将門公の首が付近に葬られ、天変地異の怪異が続き住民が窮したところ、時宗の真教上人が祟(たたり)を鎮(しず)め、延慶(えんきょう)2年(1309)には将門公が神田明神の祭神として祀(まつ)られました。

 時移り、江戸に幕府を開いた徳川家康は当社を深く尊祟して、神領を寄進しました。幕府の発展と城下の大規模な造成により、元和2年(1616)には現在の境内地に移転。
 江戸時代の神田祭は天下祭とも呼ばれ、華麗な山車が36台も続き、将軍上覧の天下第一の祭礼として全国に知られました。

 今回、遠州白須賀より2台、魚河岸会の龍神山車、また松枝町の羽衣山車、ほかにも室町1丁目の山車、神社の諫鼓山車、獅子頭山車などの山車が参加してビルの谷間に往事の天下祭の復活が期待されている。
 祭りとは「まつらう(おつかえする)」、すなわち神を祀ることから始まった
元来は神と人との間で執り行われた宗教行事であった。
 ところが現在では大衆娯楽の一つとして庶民の飲食を楽しむイベント化
しており、観光・町起しの行事として発展している。
 踊りや行列、神輿や山車などは神にささげる神聖な行為に他ならない。

1本締め
神輿をあげる前に木に合わせて一本締めを行います
「お手頭一本拝借いたします。いよぉ〜」

ちゃんちゃんちゃん、ちゃんちゃんちゃんちゃんちゃん
ちゃんちゃんとやるのですな。    
これが一本締め。
混同されやすいのが「いよぉ〜」
「ぱん」というやつ。これは「ちょん締め」
とか「一丁締とかいうのだそうで
私の地元などでもわりと間違ったまま
行われております。

  八広の爺ちゃん

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