三社祭



浅草神社例大祭

 浅草神社例大祭は、通称、三社祭といわれ、江戸三大祭のひとつに数えられているお祭りです。 この祭の特色は、氏子町会の町神輿約100余基が浅草寺や浅草神社の境内に集合する壮観さと、 宮神輿3基が江戸下町情緒の強く残る氏子44カ町を夜明けから夜まで渡御をすることにあります。

 これらの要素が三社祭を神輿で行う祭礼の最高峰にしていると言っても過言ではありません。 この雰囲気を味わうため、東京近郊だけでなく、日本各地から担ぎ手が集まります。


 

三社祭の由来

 推古36年、隅田川で漁をしていた檜前浜成、竹成の兄弟が、一体の黄金の聖観音像を網にかけました。 土地の教養人、土師真人中知に見せたところ、それは尊い聖観音像であるとし、御堂を建てその像を祀りました。

 これが観音様と呼ばれている浅草寺の始まりです。そして時が過ぎ、平安時代末期の権現思想の流行もあって、 中知を「阿弥陀如来」、浜成を「観世音菩薩」、竹成を「勢至菩薩」の化現として祀ったのが三社権現社であり、 現在の浅草神社なのです。

 三社様(浅草神社)の祭礼の創始について、「東都歳時記」に「花園院正和元年神託によりて始まりしとぞ」と記されています。正和元年は西暦1312年で鎌倉時代後期の頃です。
 
 そして、三社祭は東京最大のお祭りであり、年に一度浅草の人々を守る神様を奉る大切なお祭です。

一日目に拍板舞奉納と神輿魂入
二日目に
例大祭祭典斎行と氏子各町神興連合渡御
そして三日目/最終日には、
本社神輿・一之宮・二之宮・三之宮の宮出し宮入りが三社祭の最高潮で壮観さは全国一です。



浅草神社

創建は平安末期から鎌倉時代初期の頃とされ現社殿は慶安二年(1649)徳川三代将軍家光の寄進で、本殿・幣殿を渡り廊下でつなぐ権現造りの神社建築です。昭和21年国の重要文化財に指定されました。江戸時代以前は、神仏混淆により浅草寺と一体をなしていましたが、明治のはじめ、神仏分離の法令が出てから浅草寺と別になり、明治元年三社明神、同5年浅草神社と改称し現在にいたっています。毎年5月第3土・日曜に行われますが、びんざさら舞の奉演は前日の金曜日に浅草神社社殿にて行われます。

 



                    浅 草 寺


 江戸浦(現在の隅田川)で投網中に一躰の仏像を感得しました。のちに、「聖観世音菩薩」の

お像であることを知り、「三社権現」(今の浅草神社)とし祀られました

 平安初期に慈覚大師が、「お前立」のご本尊を謹刻され、のちに「中興開山」と仰がれることになりました。

 江戸時代になって、徳川幕府の 祈願所となり、堂塔の威容も増して大江戸文化の一翼をにない、庶民 安息の浄地となりました。

 浅草寺は「浅草かんのん」の名称で、全国の人から親しまれ、戦災で堂塔伽藍を失い、信徒の方々のいお力添えで、昭和33年(1958)10月に観音堂が、雷門が95年ぶりに、仁王門が寺宝を収蔵する宝蔵門として、五重塔が永代供養の霊牌を奉安する塔院として復興されました。



びんざさらとその語源

 びんざさらは、東京では浅草神社と王子神社にその遺風を伝え、全国的には紀州の那智神社、大和の春日神社、近江の日吉神社、山城加茂の別雷神社、陸中平泉の毛越寺などに残っているといわれています。

 びんざさら
の語源は、木を編んだ小板を打ち合わせてサラサラと音を出すところから、編(ヘン)サラサラがづづまってびんざさらに転化した物とも、チベット語の「ビンザサーラ」からきているとの説があります。梵語のビンザは「振り動かせば音を生ずる」という意味で、サーラは「沙羅樹」又は単に「木」とも訳し、梵語がチベット語化したもので、元来チベットの古楽器であるともいわれています。

 びんざさら
は編木、拍板、拍木板、佐々良、笹良などの漢字があてられていますが、楽器としては最も原始的な木片と木片とを打ち合わせて音を出す古代楽器で、他に石とか竹材、鉄といったものまであって楽器的名称からいえば「合撃型打楽器」といえます。
 
 びんざさらは長さ15.15センチ、巾3.03センチ、厚さ0.61センチの小板を108枚、上部をより糸でつなぎ合わせたもので、その全長は167.88センチ位になります。その左右両端には握り手がつけてあり、これだけ黒漆塗りになっていました。108枚の数は、念珠の数と同じに108煩悩を183昧に転換する奉数を表示したものといえます。これをU字型にしぼって(曲げて)一文字に返すと、108枚の小板が互いに打ち合って「シャラッ、シャラッ」と音をたてる。3人が同時に笛、摺太鼓の音に合わせて鳴らします。いかにも古風で単調な音調です。
 

 びんざさら舞は、江戸時代、びんざさら舞は、祭礼日の3月17日・18日に行われ、また6月15日にも舞が奉納されました。三社祭奉納の「神事」五穀豊穣や悪霊退散を願っての田楽舞(ささら舞)と子孫繁栄や害虫・悪疫消除祈願の獅子舞が舞われます。
 このように二つの舞が備わっている形は、現在では全国でも大変に珍しいものとされております。
 殊に浅草神社の獅子舞は、東西南北四方固めの舞で「獅子舞の原点」といわれているもので、浅草神社以外で現在この形が遺っているのは東京都では王子権現、また京都の八坂神社、石清水八幡宮ぐらいのものです。
3月の舞は、観音堂(浅草寺本堂)の前で行われました。「浅草神社の今昔」によると、堂前に至るまで行列が練られ、町々の名主、年寄りが裃を着て先頭を切り、10人の槍持童子、若党の槍持、ささら役、楽人、介添の者などが続いたそうです。
6月の舞は、「鎌倉の右大将再興ましまし」との伝承があったようです。5人の舞人がいろいろの面をつけて騎馬で先に立ち、神事舞の関東総支配人頭であった田村八太夫が幣を持って続き、付添、拍板持、笛、太鼓打などの行列があり、びんざさら舞が終わった後、「三平二満女(おたふく)の面をかむりたるもの舞をなし、その外かはるはる舞て、末に三人太刀を抜持て舞ふ事」があったとのことです。(「東都歳時記」)獅子舞はありませんでした。
 神事びんざさら舞もいつの頃から始まったのか分かりませんが、「浅草神社の今昔」(網野宥俊著)で「恐らくは室町時代以降と服装の上などから考えられる」とされています。
 古くは、浅草寺や浅草神社が位置する辺り一帯を千束郷と称しました。「びんざさら舞」は、観音像を安置した草庵「藜(あかざ)堂」づくりを手伝った主に千束田圃の百姓衆十人(草刈童子)が堂舎の完成を祝い、その周りで踊ったことが始まりと伝えられています。びんざさら舞にたずさわる人々は千束郷の旧家であり、弘化4年(1847)の現存する文書(下段参照)によれば、これらの人々には徳川時代に幕府からびんざさらの賄料として畑五畝歩(約495平方メートル)の土地が与えられていました。
びんざさら舞は代々その子孫達によって世襲・伝承されてきましたが、昭和20年3月、戦災のため衣裳、道具類は全て焼失してしまいました。しかし、伝統を受け継ぐ旧千束八ケ町の人々の尽力によって「びんざさら会」が再興されて、戦前と同じ様なびんざさら舞の衣裳、道具類が新調され、昭和30年5月には浅草神社社殿においてびんざさら舞奉演を再開し、維持継承されて現在に至っております。           (昭和31年東京都無形民俗文化財指定)。

 



三之宮(5月20日)

午前3:30担ぎ手         町会神酒所集合
午前5:00担ぎ手         浅草神社入場(南部16番目)
午前6:00宮出し         三基同時発進
午前8:00             仲見世町会より南部十六ヶ町渡御
午前9:20〜午前10:00    雷門中部町会三之宮渡御
午後7:10             雷門前より宮入り道中
午後8:20             宮入り



  


 八広の爺ちゃん

  隅田稲荷神社

浅草サンバまつり