隅田川花火の前身・両国の花火は、悪病退散を願って享保18年(1733)に始まったといわれる。以来、江戸時代は両国の納涼行事の目玉として、近代になってからは真夏の風物詩として江戸・東京の市民に広く親しまれてきた。

 「この地の納涼は、5月28日に始り8月28日に終わる。常に賑はしといえども、就中(なかんずく)夏月の間は、尤(もっと)もさかんなり」

 江戸の絵入り地誌「
江戸名所図会」の「両国橋」の項の記述で、挿絵には花火が描かれている。今年なら6月27日から9月24日までが、その納涼期間に当たる。

 花火は、川開きの大花火から最終日の打ち止めの花火まで連日のように打ち上げられた。橋の上流は玉屋、下流は鍵屋の受持ちで「タマやぁー、カギやぁー」の掛声が飛び交った。

 両国橋の両側・西両国広小路と東の向こう両国は、見世物小屋や飲食店、髪結い床などが立ち並ぶ盛り場だった。いつも賑わっていたが、特に納涼期間は人出が多く、川も大混雑した。

 「楼船扁舟(ろうせんへんう)所せく、もやひつれ一時に水面を覆ひかくして、あたかも陸地に異ならず。絃歌鼓吹(げんかこすい)は耳に満ちて囂(かまびす)しく、実に大江戸に盛事なり」=「江戸名所図会」の描写である。橋付近の川面一杯に多くの涼み船が集まり、その間を「うろうろ船」と呼ばれる果物などを売る小舟が漕ぎ回っていた。
 
夏の涼みは両国の出船入り船屋形船の賑わいの中に上がる流星星下りの花火が彩りを添える。

 涼みがてら見物に来た若い者同士、
玉屋が取り持つ縁かいなとなることもあったに違いない。そうでなくても、ドンドンと威勢よく上がる花火は江戸の人たちの気分高揚させて止まなかった。

 江戸の年中行事、風俗などを記した「
江戸府内絵本風俗往来」は「川開きは両国近隣のみならず江戸中の賑わひといふべし」の文に添えて、屋根上の干し物台から多くの花火を眺める2人の男の子の絵を載せている。

 しかし、両国の花火も、幕末の風雲が急を告げる文久3年(1863)から、しばらく中止となっている。江戸時代の初めから明治初年までの江戸・東京の出来事の記録「
武江年表」文久3年(1863)5月28日の項には「両国橋辺夜店始まる。花火はなし。納涼の輩少なし」とある。

 太政奉還の4年前、世の中は花火どころではなっかったのだろう。だが、江戸の人の花火へ寄せる思いは特別だった。
 
 「
武江年表」は、上野の彰義隊の戦争があった翌年の明治元年6月8日の項に「かゝる中にも両国川通花火ありて、楼船数多く漕ぎ連ねて絃歌喧げんかやかま)しく、水陸の賑ひ大方ならず」と記している。

 明治改元はこの3ヵ月後だから、正確にはまだ慶応4年のことである。幕末の混乱時でも両国の花火の中止は5年間だけだった。

 ただ、明治以後の両国の花火は納涼行事としての色彩が次第に薄くなり、川開きは単に花火打上の日とでもいえるようになった。もっとも、ということは、花火の魅力だけでは江戸が東京と変わっても多くの庶民の心を捕らえて止まなかったと見ることが出来る。

 昭和になてから戦争・交通渋滞などによる中止がありながら、その都度復活したのも花火関係者や自治体の努力・協力のほか、後援してきた読売新聞社他の協賛各社の力添えが大きく、また、花火好きの都民の支持があったからだろう。

 「隅田川花火大会」は、江戸以来の両国の花火の伝統を見事に受け継いでいる。電力危機の今年、自然の川風に吹かれながらの花火見物で暑気払しては如何だろう。威勢よく上がる花火に不景気退散の願いを込めて、玉屋!!---、鍵屋!!---、〜〜〜〜〜〜〜〜。