白鬚神社


東向島3丁目5番2号


 

祭神  猿田彦大神
 天照大御神  高皇産霊神  神皇産霊神  大宮能売神  豊由気大神  健御名方神

由緒
 天暦5年(西暦951年)慈恵大師が関東に下ったときに、近江国比良山麓に鎮座する白鬚大明神御分霊をここにまつったと、社伝の記録は伝えている。天正19年(1592年)には、時の将軍家より神領2石を寄進された。
 当社の祭神猿田彦大神が天孫髣ユの際に道案内にたたれたという神話より、後世お客様を  わが店に案内して下さる神としての信仰が生まれた。社前の狛犬は山谷の料亭八百善として 有名な八百屋善四郎、吉原の松葉屋半左衛門が文化12年に奉納したもので、その信仰のほどがしのばれる。明治40年には氏子内の諏訪神社を合祀した。

隅田川七福神
 当社に寿老神を配し奉るのは、文化の頃この向島に七福神をそろえたいと考えた時に、どうしても寿老人だけが見つからなかった。ふと白鬚大明神はその御名から、白い鬚の老人の神様だろうから、寿老人うってつけと、江戸人らしい機智を働かせて、この神を寿老人考え、めでたく七福神がそろったといわれる。隅田川七福神に限り、寿老神と神の字を用いる所以である。

寿老神
 白鬚神社は往古の寺島村の鎮守であって、祭神を昔風に平たく申し上げると白鬚大明神である。江戸時代の終りに近く、町人文化が全盛の時期、当村の百花園に集まって風流を楽しんでいた文人 たちが隅田川東岸で初春の七福神詣を始めようとしたとき、どうしても近隣の寺 社に寿老人が見つからない。そこで機智を働かせ鎮守の白鬚大明神は、白い御鬚のご老体であろうから、まさに寿老神としてたたえるのにふさわしいということになり、めでたく七福神が誕生したわけである。寿老神は、人々の安全と健康とを守る長寿の神として崇敬されている。

寺島ナス (江戸・東京の農業)
 かって、白鬚神社の周辺を寺島村といいました。元禄郷帳(1668年〜1704年)によれば、この地域一帯は水田を主とする近郊農村でしたが、隅田川上流から運ばれたきた肥沃な土はナス作りにも適し、ナスの産地として、その名も「寺島ナス」と呼ばれていました。
 享保20年(1735年)の「続江戸砂子温故名跡志には、「寺島ナス=西葛西の内也。中の郷の先、江戸より1里余」とあり、夏秋の中の嘉蔬(かそ)とす。」また、文政11年(1828)の「新編武蔵風土記稿」には、茄子として「東西葛西領中にして作るもの」として「形は小なれども早生ナスと呼び賞美する」と江戸近郊の名産であると記されています。
 農家は収穫したナスを船を使って、千住や本所四つ目神田の土物店(青物市場)等に出荷していました。 
 江戸時代、悠々と流れる隅田川東岸。田園地帯であった寺島に、後世に伝えるに値するナスの名品があったのです。

平成9年度JA東京グループ 農業共同組合法施行50周年記念事業



 東向島の大部分と堤通・隅田の一部が氏子で、「江戸名所図会」には「白鬚明神社 隅田河堤の下にあり。祭神は猿田彦命なり。祭礼は9月15日に執行せり」とあるが、現在の例大祭は6月の第1土・日曜日で、3年に一度本祭りが行われている。ここの「祭り」には雄・雌一対の獅子頭が練り歩き、向島名物のひとつに数えられている。獅子頭は江戸末期の作といわれ、現在も神社に保管されている。大きいこと都内一でケヤキ材に布張り漆でかため、金張りの見事なものであり一頭の重さが8貫目(30キログラム)もあるという。
 頭に3人、木綿でつくった「あおり」に5人の若衆がそれぞれ入り、威勢よく町を練り歩く。また、この白鬚を含めた2、3の神社に伝わる「ぼんでん祭り」は、江戸時代からの祭りで、付近が農村であった当時、氏子区域の五穀の豊穣を祈願して5月5日前後に行われる特殊な神事であった。
 ぼんでんと称する御幣をたくさんつくり、これを飾った舟を隅田川に浮かべ、氏子が川飛び入って身を清め、神前に祈ったのち御幣をわが家に持ち帰って、これを苗代田に差し、苗を清めたものである。
 この「ぼんでん祭り」も大正時代になり、付近一帯が都市化して田畑が少なくなると、その形式を保存し、氏子内の家内安全や繁栄を祈願する行事に変わって今日まで続いている。
 祭りに関する資料は非常に乏しく、区内の祭りの全容は十分につかめないが、江戸っ子の心意気を示す:祭り:が年々盛んになるのもまた楽しみだ。



          堤通り(大林組)前                    地蔵坂通り    


2004年


  八広の爺ちゃん

   牛島神社

   日枝神社